出逢いは、僕が23、その人が58歳の時だった。鷲鼻で瞳は緑、毒舌で、一見して尋常(ただ)の人じゃない。同年齢(おないどし)になった今から考えると嘘のようだが、おじいさんと見立てた。
奇縁というべきか、1965年、まだ出版界が熱い時代、おなじ会社に入った。
僕は徳間書店の書籍(文芸)編集部の新入り。当時、出版はやくざなものと相場は決まっていたが、業界は若かった。
徳間書店の平均年齢25、社長の徳間康快だけが40代。岩波や平凡社が29歳で、年寄りだなあと嘲笑(わら)っていた。
同世代の編集や営業の連中数人と、この碧眼のひとによく話をせがんだ。円本の頃から、現今(いま)の出版社・取次・書店のことなど。聞くほどに、その博覧強記と実体験の細部(ディティール)にうなった。
大正9年、15歳で東京堂に丁稚として入る。まだ東京堂が出版界の中心だった時代だ。戦中・戦後の国策会社・日配を経て、戦後、24年に創業した日販の創立メンバーとなる。七人の侍といわれたことなど、だんだん分かってきた。雑誌畑ではなく、書籍一筋の取次人という極限のスペシャリストなのが珍重すべく、魅力だった。
日販の定年で、徳間康快に請われてきたが、すぐ居場所がなくなった。所在ないまま、われわれのようなチンピラの相手をよくしてくれた。
いつか、その人も会社を離れた。贔屓(ひいき)だった河出書房新社の倒産前後で、密かに関わっているようだった。その後、河出書房の顧問、その子会社KKベストセラーズの副社長や日本生産性本部の顧問などをしていると仄聞した。
僕も29で辞めた。一年経って、ひとりで出版社を始めようと、おそるおそる相談に行った雲の上の人が、即座に無料で顧問になってくれた。
しばらくして、「新文化」に「わがベストセラー体験記」という連載が始まった。'81年『業務日誌余白−わが出版販売の五十年』として一本になった。迫力に満ち、業界人をあっといわせた。
出版記念パーティの挨拶が豪華だ。書店は有隣堂の松信泰輔、出版社は講談社の服部敏幸、取次が東販・遠藤健一、日販・岡田栄治郎といった全出版界の花形が、大先達の報われざる巨人へオマージュを捧げた。
断片的だった挿話が、大正以降の出版史の中で、松本昇平という強烈な個性とともに甦ってくる。過去の中に静まるのではなく、現在(いま)僕が出版をどうするかの指針になった。
松本さんは、昨年10月6日、九十三歳で亡くなった。最後まで、弓立社の顧問だった。
ひと月前にお会いしたのが、最後となった。明晰で、毒舌も駄洒落も健在だった。
その一年前、「宮下さん、もう取次だけに頼る時代は過ぎたよ。読者・書店との直接販売も考えたほうがいいよ」と云われた。誇り高き取次人にして、この言葉。凄みがあるじゃないか。

(『彷書月刊』2000.7)